マーク・ボイル著「ぼくはお金を使わずに生きることにした」を読んだ。
お金を使わない生き方について考えさせてくれる一冊だった。
筆者について
筆者のマーク・ボイル氏は、1979年アイルランド生まれ。
大学卒業後にオーガニック食品業界で働いたのち、2007年にフリーエコノミー (無銭経済) 運動を創始。
2008年の国際無買デーからの1年間、いっさいお金を使わずに自然のなかで自給自足の生活をする。その体験をまとめたのが本書だ。
この記事を書いている僕は、お金を使わない倹約生活を実践している。
もちろんボイル氏がしたような「1円も使わない生活」ではない。
ただ、「お金を使わずに生きる」という彼の思想は、日ごろ自分が大事にしている倹約精神と何か近いものがあると感じ、興味をもったのがこの本を読んだきっかけである。
実際に読んで感じたことを今回の記事にまとめようと思う。
読んでくださった方に、少しでも参考になれば嬉しい。
お金を1円も使わない暮らしは豊かなのか?
①「お金を使わない暮らし」と「お金を1円も使わない暮らし」は違う
僕は倹約家で「お金を使わない暮らし」をしている。
ここでいう「お金を使わない」というのは1円も使わないということじゃなく、「生活費をかぎりなく抑えた質素な暮らし」ということ。
お金を使わない暮らしは豊かだ。
余計なものにお金を使わず、少ないお金で最低限の暮らしを楽しむことができる。
いっぽう、ボイル氏がする「1円もお金を使わない暮らし」というのは、文明の利器を使わない完全な自給暮らしだ。
洗濯機もない。冷蔵庫もテレビもない。
電気じゃなくロウソクを使い、水洗トイレじゃなくコンポストトイレを使う。
野原でキノコや野草を採り、自分で栽培した野菜をとって食べて暮らす。
倹約という意味でのお金を使わない暮らしとは、まったく別次元のものだ。
② お金を使わない = 社会と関わらない
筆者のボイル氏は、自分の理念をもってカネなし生活を発信し、多くの人から共感を得ている。
ただ、もし彼の生き方に共感し、自分もカネなし生活をしようと考える人がいるなら、注意が必要だ。
なぜならお金を使わず生きることに慣れてしまうと、社会で生きることができなくなる恐れがあるからだ。
みなさんは「はじまりへの旅」という映画をご存じだろうか?
以前U-NEXTでこの映画を観たが、「カネなし生活が社会適応力を失わせる」という教訓を学べる作品だ。
はじまりの旅について
社会との関わりを断絶して暮らす家族の物語。
この家族は山奥で狩りをして生活している。父親の英才教育により、子どもたちは超人的な身体能力と、高い知性をもっている。
でも彼らにはひとつ大きな欠点があった。
それは、一般社会との関わりがないせいで、社会の価値基準がわからないということ。
彼らは山奥で生活し、父の教育を受け、多くのことを知った気になっていた。
けれどいざ下界に降り、人と関わると、まるで周囲と話がかみ合わない。自分たちの価値基準が通用せず、「常識のないやつだ」と笑われ首を傾げられる。
物語の後半で、彼らはいかに自分たちが世の中について無知だったかを悟り、絶望するシーンがある。
僕たちは普段、お金を使うことで社会とつながっている。
買い物をするとき、その店にお金を払い、商品を受け取る。そこには人と人とのやりとりが生じる。
こうしたやりとりのなかで生きるからこそ、他人と関わって社会生活を送ることができる。
つまりお金をいっさい使わない暮らしというのは、社会との関わりをもたないということ。
もちろん、人と関わらない森のサバイバル生活から学べることも多いかもしれない。
けれど、そうした生活が自分にとって当たり前になると、いずれ一般社会の価値基準と自分の価値基準とのあいだにズレが生まれる。
結果、いざ下界に降りたとき、あの映画の子どもたちのように社会に馴染めなくなる可能性があるのだ。
お金とは無縁の生活のために、社会とのつながりを失わないように注意が必要だ。
③ 環境配慮より大切にしたいこと
本書でボイル氏は「環境配慮」の大切さを語っているが、僕は環境配慮よりも大切なものがあると思う。
それは「時間」だ。
ボイル氏は、本書で以下のように述べている。
イギリス中の人がコンポストトイレに乗り換えたとしたら、一日あたり20リットルの水の節約になるだけでなく、良質の肥料をたっぷりと土に返すことができるだろう。
出典:「僕はお金を使わずに生きることにした」 マーク・ボイル 著 吉田奈緒子 訳 紀伊国屋書店
環境を傷つけないため、水洗トイレを使わず、不便を承知のうえでコンポストトイレを使う。
ボイル氏のこうした価値観から学ぶべきことはたくさんある。
ただ、自分が同じようにカネなし生活をするかと聞かれれば、答えはNOだ。
なぜなら、「環境配慮」よりも「時間」を優先したいからだ。
洗濯機は時間を生んでくれる
たとえばボイル氏は1年間の自給生活で、洗濯機を使わず手作業で洗濯をしていた。
オーガニック洗剤を自作するところから始め、一回の洗濯にかかる時間は2時間。
これはつまり、「洗濯のために2時間分の人生を消費している」ということではないだろうか?
もちろん洗濯は日常生活のために必要だ。
けれど、そもそも「洗濯という行為」そのものに価値はない。
服をゴシゴシ洗う動作を何百時間つづけようと、なにか特別なスキルが身につくわけでもないし、新しいことを学べるわけでもない。
一回の洗濯に2時間もかけるくらいなら、その2時間は勉強や趣味など、自分にとって有意義なことに使うほうが得策ではないだろうか。
だからこそ「洗濯機」というものが存在する。
もちろん洗濯機を使えば大量の水を捨てることになり、環境に負荷がかかる。
しかし洗濯機のおかげで「手作業の洗濯」という価値のない動作に、貴重な人生の時間を奪われなくて済む。
浮いた時間を、本当に重要なことに使うことができるのだ。
たしかにボイル氏の言うように、文明の利器が世の中に害をもたらしている面はある。
車を走らせれば排気ガスが出るし、洗濯機や水洗トイレを使うたび、大量の水を捨てることになる。
ただ同時に、文明の利器のおかげで、日常のわずらわしい雑務に使わされていた貴重な時間を、もっと重要で意義のある活動にあてることができるようになったのも事実だ。
もちろん「環境配慮」「時間の確保」のどちらもできるのが理想だろう。
ただ、どちらか一方を選ばないといけないなら、時間ではないだろうか。
「環境配慮」という、成果が目に見えにくい大きなもののために時間を消費するより、一度失うと取り戻せない「自分の限られた時間」を守るほうが、結果的に人生を豊かにするのではないだろうか。
無償で与え、幸せを生もう
ボイル氏は「人に親切にし、与えることの大切さ」について力説している。
他人への気づかいや愛を広げていけば、めぐりめぐって与えた人にも戻ってきて、結果的にみんなが幸せになれると。
本書にこう書かれている。
カネなし生活には精神面での美点があると考えている。
出典:「僕はお金を使わずに生きることにした」 マーク・ボイル 著 吉田奈緒子 訳 紀伊国屋書店
人が家族や友だち以外の誰かのために働くときは、おおかた何かしらとの交換になる。何かをするのは代償があるからだ。
僕が思うに、売り買いと与え合いのちがいは売春とセックスのちがいのようなもので、行為の背後にある精神が大きく異なる。
相手の人生をもっと楽しくしてあげられるからというだけの理由で、代償なしに何かを与えるとき、きずなが生まれ、友情が育ち、ゆくゆくはしなやかな強さをもったコミュニティーができあがる。
ただ見返りを得るために何かをしても、そうしたきずなは生まれない。
見返りを求めずに、人に何かを与えるのは美しい行為だ。
同僚にお菓子をあげる
ちいさなエピソードだが、僕は以前、もっていたお菓子を会社の同僚にあげた。
相手は喜んでいたが、あれも1つの「与えること」なんだろう。
相手がそのお菓子を美味しいと感じたかはともかく、少なくとも与えられて嫌な人はいない。
そして何より、与えることは気持ちがいい。
人に喜んでもらったり、感謝されることをすると、「あぁいいことしたな」と温かい気分になる。
お金などの見返りを求めず、純粋な親切心で人に何かをしてあげることは人間性の宝だ。
与えれば幸せになれる
あなたの家族でも友人でも、職場の人でもいい。
身近にいる人に、なにかを無償で与えてみてほしい。相手も自分も幸せになれる。
ちなみに「無償で与える」ことを学ぶために、なにもボイル氏のような自給暮らしはしなくてもいいと思う。
僕たちの日ごろの生活で
- 人を喜ばせる
- 人に何かをしてあげる
という行動をしていけば、日常がもっと幸せになるはずだ。
人が豊かに生きるには?
本書を読んでから、「幸せに生きるために何をすればいいか」について、僕なりの見解をまとめてみた。
つたない意見だが、少しでも参考にしていただければと思う。
① 大切なものにはお金を使おう
「1円もお金を使わない暮らし」が幸せかというと、必ずしもそうじゃない。
お金を使わないことで、大切なものを犠牲にすることもあるからだ。
たとえば洗濯機を使わずに手作業で洗えば、そのぶん長い時間がかかり、人生の貴重な時間を失う。
時間が大切な人からすれば、洗濯機を回すことにお金は使ったほうがいいだろう。
そう考えると、お金は「大切なものを失わないために役立つ道具」でもある。
お金には人の生活を助け、暮らしを豊かにするポジティブな面もあるということを忘れないでおきたい。
② お金で社会とつながろう
お金をいっさい使わない生き方から学ぶものはたくさんある。
ただ同時に忘れないでおきたいのは、お金は社会とつながる大切な手段でもあるということ。
普段あまり意識しないかもしれないが、僕たちはお金を使うことで社会とつながっている。
コンビニでジュースを買えば、そのジュースを売ってくれた人、作ってくれた人に金銭的な豊かさを与えたことになる。
スーパーの募金箱に小銭を入れれば、世界のどこかで助けを必要としている子どもに食べ物が届く。
お金を使うのは、社会とつながり、人に与えるということ。
基本的に人は一人では生きていけないものだし、他人との関わりのなかでしか得られない幸せがあるのも事実。
社会と関わって豊かに生きていくために、お金は必要なのだ。
③ 適切な相手に与えよう
本書でボイル氏は、以下のように述べている。
ぼくがカネなし生活からまっさきに学んだ最大の教訓は、人生を信じることであった。
みずから与える精神を持って日々を生きれば、必要な物は必要なときにきっと与えられる。ぼくはそう確信している。
これを理性で説明しようという努力は、とっくの昔に放棄した。感性と経験から導かれた確信である。
出典:「僕はお金を使わずに生きることにした」 マーク・ボイル 著 吉田奈緒子 訳 紀伊国屋書店
自分から与えていれば、あるとき自分にも返ってくる。
じっさいボイル氏は、日頃から人に食べ物を配り歩いていたら、あるときトレーラーハウスをタダでもらったり、空腹のときに夕食に招かれたりしたことがあったそうだ。
与えることで与えられる。そのためには信じることが大切だと。
誰かれ構わず与えるのはNG
ただ、おそれ多くも1つ付け加えたいことがある。
それは、「誰に与えるか」も大切ではないか、ということ。
与えるという行為そのものは、たしかにすばらしい行為だ。
ただ、すこし冷めた言い方かもしれないが、世の中には「与えても意味のない人」も少なからず存在する。
人から受け取っているだけで何も与えようとしない人だ。
下記の本では、そういう人のことを「テイカー (受け取るだけの人)」という。
テイカーは身近にいる
かくいう僕も昔、「テイカー」に出会ったことがある。
他人から与えてもらうのを期待してばかりで、自分から与えたり、主体的に行動を起こしたりしない人。
彼らは何かをくれると思った相手に依存し、ひたすら後ろからついてくる。
基本的に、こういう人には何を与えても無駄だ。むしろこちらが損をする。
彼らは自分の欲を満たすために相手の時間を平気で奪ったり、迷惑をかけることに引け目を感じないからだ。
たしかにボイル氏の言うとおり、「与える」ことは幸せを生み出すうえで大切。
ただ、与える側、与えられる側どちらもWin-Winの関係になるよう、「適切な相手に与えること」も大切ではないだろうか?
まとめ
今回は、マーク・ボイル著「ぼくはお金を使わずに生きることにした」を読んでの感想をまとめました。
お金を使わない生き方、無償で与えることに関心がある方は、ぜひ一度読んでみるのをおすすめします。
また、お金を使わずに楽しむ方法について解説している記事もあります。
よかったらぜひ読んでみてください。